これほどたまらなく“会いたい”と思える【舞台「地獄楽-終の章-」 感想】

無事終幕おめでとうございます!!
昨年、第1弾を一目見て大好きになった作品を最後まで見届けることができて嬉しかったです。

どうしてこんなにも舞台「地獄楽」が大好きになったのか。それはじごステの勢いが私の性にあっていたからだと思う。

ここで言う私の性というのは、私の前世がアイドルオタクだったことである。俳優オタクになる前は、アイドルのライブに足繁く通っていた。
アイドルのライブでは、何でもありだ。歌とダンスに限らず、コントやゲームで盛り上げたりもする。そんなエンタメてんこ盛りで息付く暇もないアイドルのコンサートが私のオタク人生の根底にある。
乱戦に次ぐ乱戦、綺麗なシーンも胸打つシーンも、和やかなシーンも全部詰め込んだ舞台「地獄楽」は、まるで何層にも重なったパフェのようで、幕が開いてからずっと次はなんだろうとワクワクしていた。こちらの心身がどんな状態で見に行こうとも、コンディションの差を丸ごと飲み込んで、いつだって神仙境に引き込んでいってくれた。その勢いが心地よかった。

しかし、その勢いだけでは観客を引き込むことは出来ない。速いだけでは振り落とされてしまう。何でもありな勢いを成立させるには、演者のなりきる力にかかっていると思う。

アイドルを見ていて、ダンススキルよりも、歌の上手さよりも、どこまで自分に酔いしれるかにアイドルとしての力量が表れると感じた。アイドルであることをひたむきに全うし、自身の最高を提示し続ける。踊っている曲の世界観に誰よりも没頭して、音楽の世界の中の人になることで、アイドル本人が架け橋となり、様々な曲を繋ぎ、1つの作品として完成させる。これが、なんでもありなアイドルのコンサートが1つの作品として成立する理由だと思う。

それは、舞台作品でも同じだと思う。
「終の章」の幕が開いた瞬間、一瞬にして激動の神仙境のど真ん中に引き込まれた。1年のブランクがあることなんて感じられないほど、そこにはかつて出会った地獄楽の世界があった。
画眉丸はやっとの思いで辿り着いた水門の荒れ果てた状況を目にした時、十禾に「目的を考え直そう」と言われ、怒りに震える。自分の核となる目的を考え直せる程度のものだと見くびられたことに怒り、言葉の通り、全身が小さく震えていた。
その震えが、「役として生きる」の体現だと思った。台詞回しや、表情はもちろん、頭から爪先までの全身が、役と共にある。
「地獄楽」の激動の物語にのめり込み、先陣を切って突き進み終結させたのは、役者の「役と共に生きる」強い意志があってこそだと感じた。

1つ大好きな作品が終わってしまったことは寂しいけれど、私も彼らの幸せを願いながら、次に大好きになる作品を楽しみしていたいと思う。